1955
裁判所に勤める父と専業主婦の母のもとでひとりっ子として育つ。戦後社会が求めた「いい子」として成長。両親から無条件に愛された体験は「無謀な挑戦」へ踏み出していく力となる。
子ども時代は「遊びの王者」と呼ばれる。中学ではサッカー部がないという一大事件に直面。高校時代はバスケット部に入りながら、バンドを組む。ビートルズとビージーズを得意とした。
東京大学経済学部へ入学直後に典型的な5月病となる。引きこもり同然の生活を送っていたが、初めての海外旅行へ行くためにバイトを一所懸命する過程で、脱け出す。
1978-
新卒としてリクルートへ入社。周囲の同級生の中で、ベンチャーへ行くのは自分だけだった。営業統括部長や新規事業担当部長を歴任し、メディアファクトリー創業に関わる。
リクルート新人時代 バンドCOSMOSを組んでいた@ニューオータニ鳳凰の間/忘年会
心身症の一種「メニエル」病になり、長時間働けなくなる。会社内で昇進していく出世コースを捨てて専門職に移行。メニエルには5年悩まされた。
「これからの日本には成熟社会がやってくる」という予測のもとヨーロッパに駐在。ロンドンに1年1カ月、パリに1年3カ月、家族とともに滞在。成熟社会の生き方を目の当たりにする。
でも・・・正直に言うと、逃げた。自分が40歳から何をテーマに、どのような人生を送っていくのか。どんなテーマで生きて行くかを、決め切れていなかった。
パリの人々に教えられた。国よりも、産業社会よりも、自分自身の人生と人々との関わりを大事にするフランス人の生活信条。一般解がない。ひとりひとり自由に考え、選択肢を味わっている。一期一会を大切にする、豊かな生き方。
3人の子どもがいる身ながら、リクルートを退社し、年俸契約の客員社員「フェロー制度」の第一号として働く。個人と会社で対等なパートナー契約を結んだ。翌年に『処生術』を上梓し、ヒット。
2003-
東京都における義務教育初の民間人校長として、杉並区立和田中学校の校長に。マネジメントの力で学校の変革を進めることを実践。収入は激減。
橋下徹大阪府知事の特別顧問(08年〜11年)、佐賀県武雄市特別顧問(14年〜15年)、奈良市立一条高等学校(16年〜18年)の校長など様々なポジションを経験。現在は、山梨県知事特別顧問(22年〜)としても活動中。
生徒がそれぞれの「1万時間」に没入し先生にもなるオンライン寺子屋「朝礼だけの学校」を開校。
MESSAGE
2025年11月27日に70歳を迎えます。そこからの25年間の人生を革命的に変えていきます。
リクルートで営業・マネジメントを25年、教育改革実践家として25年、そして、これからの25年は教育改革を一丁目一番地として「よのなか」の改革に挑んでいきます。
人生100年時代には、一つのスキルでは持たないし、一つの仕事で最後まで現役で居続けることも厳しいです。大切なのは「コミュニティ」に参加すること。まず会社や役所に入ったとしても、複数の組織外のコミュニティに属し、新しいコミュニティを作り育てることで、やがて生まれるビジネスやボランティアでの社会貢献の芽を育んでいきましょう。
革命は、2万キロメートル彼方の別の世界で起こるのではなく、自分の中に起こるものです。様々なコミュニティを創る藤原の姿を、この公式サイトでご覧ください。