
吉井長三著
角川書店
1800円(税抜き)
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東京・銀座で画廊を経営する「日本一の画商」、吉井長三氏の一代記である。広島県尾道市生まれ。東京芸術大学への進学を父に反対され、中央大学から三井鉱山に入社。人事部に配属されたエリートだったが、絵画への思いを断ち切れずに退社。父に勘当されながらも、銀座の画廊で丁稚奉公の後に独立。ルオー、ピカソ、ユトリロらの巨匠を日本に紹介する傍らで、東山魁夷など日本美術の粋を欧州に広めた。
孫に「蔵(クラベ)」「瑠央(ルオー)」「土雅(ドガ)」と名づけてしまうほどのパリ好き。フランスで勲章を受章し、古城を別荘にしている。シラク前大統領の友人で、1995年のパリ祭ではコンコルド広場に招待席があったのに抜け出し、滞在中の評者とシャンゼリゼでシャンパンを飲み明かした。ちゃめっ気たっぷりの人柄だ。
南に富士、西に甲斐駒ケ岳、北に八ケ岳という立地の廃校になった山梨県内の小学校を買い取り「清春芸術村」として蘇らせてもいる。樹齢50年以上の桜が取り巻く敷地に、セザンヌやルオーらの作品を展示する美術館を建設。さらにシャガール、ザッキン、モディリアーニなどの“巣窟”だったモンパルナスのアトリエ・アパートを移築した。最近では、茶室が、ナント檜の木の上に作られた。一見の価値あり。
政治家や経営者が出版する一代記は多いが、この本くらいのクオリティーで作らなければ、読まれないだろう。
特に、梅原龍三郎画伯とのエピソードの中で、著者が「絵画とは何か」の深淵に触れる印象的なシーンがある。
ある朝、著者は梅原画伯に美しい薔薇を描いたと告げられた。だが、いくら探してもそんな絵は見当たらない。後日、著者は親交があった評論家の小林秀雄氏に、この梅原画伯の錯覚について告げると、小林氏は「錯覚じゃない。それは空で描いているんだよ。勘違いしてはいかん」と指摘したという。最晩年には、梅原画伯は絵筆を持たなくなった。「美しいものが実によく見えるようになったから、もう絵は描かなくていいんだ」と。芸術界で活躍する世界の巨人たちの懐に入り込んだ吉井氏の人間力に、引きつけられる本だ。
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