
矢作利夫著
料理王国社
1500円(税抜き)
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「脱サラ居酒屋経営1500日の記録」とサブタイトルにあるように、著者はリクルートの事業部長として書籍情報誌「ダ・ヴィンチ」の創刊を担当した後、スパッと辞めて東京・銀座に居酒屋を開いた人物だ。
サラリーマンをしていれば、誰しも辞めたくなる時が1度や2度はやってくる。勢い余って辞めちゃった時に、友人たちはこぞってその理由を聞いてくるのだが、「何となく、辞めたくなった」という著者のホンネに共感を覚える転職者も多いはずだ。そして失業、浪人。初めてのハローワーク通いを経て、居酒屋「A・un」の開業となる。
評者が関わるリクルート出身者の書物を取り上げるのにためらいがなかったわけではないが、あえて紹介したのは、読者にもそうした著者の体験が参考になるのではと考えたためだ。
私には初め、リクルートのOBが飲食店を、しかも銀座にオープンするのは相当無謀な冒険に思えた。
まずは居酒屋経営とは何かを一から学ぶための塾通い。行きつけの店のオーナーにオリジナルメニューの開発を依頼したり、相棒となるコック長と店員を面接したり、知り合いを頼ってビル探しをしたり、看板や備品、食材や酒類の手配、食器の買い出し、身内を実験台にしたおいしさへの試行錯誤。理論的な顧客満足(CS)を説く経営書よりずっとリアルに、CSの本質が語られる。
著者は「特徴ある雰囲気づくり」と「スムースなオペレーションの流れ」が成功のカギであったと書いているが、気むずかしいクラブのママさんやそのお連れさんもやってくる銀座の地では、いくつもの小さな事件が起こるべくして起こる。
それらをどう乗り越えてきたかの赤裸々なエピソードを読み進むうちに、皿やグラスを片づける“あ・うんの呼吸”の秘密も解けてくる。
また、かつて会ったことのある人の顔は何となく分かる。でも、その名前が思い出せないのはよくあることだ。そんな時「あっ、いらっしゃい!」と親しげに声をかける。名前を思い出せなくても、「あっ、」の部分に親愛の情を込めることで、お客様は店の雰囲気にすっと自然に馴染んでいけるのだという。
「脱サラ」は、夢がある一方で恐怖もある言葉である。恐怖を和らげるものがあるとすれば、それは何より、サラリーマン時代に築いておいた信用と、人との縁の深さなのだと改めて思う。読んでから行くか、一杯飲んでみてから読むか。顧客サービスと自分の人生を問い直したいすべての人へ。 |