よのなかフォーラム
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タイトル 短編小説『甲子園』
投稿日: 2020/05/17(Sun) 16:14
投稿者USA

短編小説『甲子園』

「ねぇお兄ちゃん、どうしたの?泣いてるの?」
兄の部屋から聞こえた噎び泣きが廊下に響いていた。兄の泣き声を聞くなんて初めてのことで私は戸惑いながらも扉越しに兄に声をかけた。

「今日さ、発表されたんだよ。夏の甲子園が中止されるって。もう何も考えられなくなっちまったよ」
兄の言葉に私は驚きのあまり頭が真っ白になった。兄は小学校の頃から野球を始めその面白さに目覚め、そして野球にのめり込んでいくうちにいつしか甲子園を夢見るようになった。
高校に入ってからというもの、野球部で夜遅くまで練習した後も家に帰ってから毎晩深夜まで黙々と素振りをしていた。

部屋の向こうで兄が落ち込んでいる姿は容易に想像できた。私は自分の動揺を悟られまいと徐ろに兄に語りかけた。
「お兄ちゃん、私がなぜ希望の高校に受かったかわかる?」
兄からの反応はない。構わず私はドア越しの兄に語りかける。
「それはね、お兄ちゃんのおかげなんだよ」
相変わらず兄から何の返答もなかったが、兄の部屋の中からイスが軋む音だけが聞こえた。
「去年のことなんだけど、私ね、お父さんとお母さんの会話を聞いちゃったんだよね。実はね、お父さんリストラされたんだって」
「えっ?」
イスの軋む音と重なり合っていたが、確かに兄の動揺した声が私に届いた。
「その話をしてた時はね、お兄ちゃんは野球部の合宿に行ってたから家にいなかったし、お父さんもお母さんも私はもうとっくに寝てると思っていたんだと思う。私はお茶でも飲もうと思ってリビングに行こうと階段を降りてたところで2人の会話をたまたま聞いたのよ。だからまさか私にそんな話を聞かれてたなんて全く知らないと思う。
お父さんね、つらそうだった。一生懸命会社で頑張ってきたのに、何で俺がって。
私も受験を控えていた年だったからお父さんのその一言はとてもショックだった。お父さんに仕事がなくなるなら私は高校に行けないんじゃないかって思ってパニックになっちゃったの。一瞬目の前が真っ暗になったっていうか。
私はひとり階段にへたり込んでたの。お父さんもお母さんもしばらくは黙り込んでた。
でもね、しばらくしたらお父さんね、お母さんに言ったことがあるんだ。
なんだかわかる?」
私は扉の向こうの兄に問いかける。でも反応はなく沈黙だけが廊下を覆っていた。
「お父さんはお母さんにこう言ったんだよ。
『真斗があれだけ野球頑張ってるんだもんな。
俺もあいつに負けないように頑張らないと』って。
お父さんはね、お兄ちゃんの頑張りをずっと見てたんだと思う。だからこそ自分の子供があれだけ頑張ってるんだから自分も頑張らなくちゃいけないって思ったんじゃないかな。
そのお父さんの言葉を聞いてね、お母さんも
『あなた、心配しないで。あなたが次の仕事を見つけるまで私がパートでもなんでもして支えるから』って言ってた。
2人の会話を聴いてね、私も何か吹っ切れたの。結果はどうなるかわからないけど、私も受験勉強をとにかく全力で頑張ってみようと思ったの。
これもお兄ちゃんが一生懸命野球に打ち込む姿を家族みんながそばでずっと見てたからそう思えたに違いない。
お父さんが資格を取って新しい職場で働いてることはお兄ちゃんも知ってるでしょ?お父さんもお母さんも私たちに余計な心配をさせまいとリストラされたことなんて言わないけど、お父さんの転職には理由があったのよ。
でもね、もしお兄ちゃんの甲子園へ向かうひた向きな努力がなかったら私たち家族は今頃どうなっていたかわからないよ。
私もお兄ちゃんやお父さん、お母さんの頑張ってる姿を見てたら弱音なんて吐けなかった。だから勉強を頑張れたのよ。そして希望の学校に合格できて、こうして今楽しく学校に通えてる。
ねぇ、お兄ちゃん、甲子園中止になったってつらいよね。ずっと夢だったものね。今の私にはなんて言ってあげたらいいのか正直わからないわ。
でもね、お兄ちゃん、これだけは言わせて、、、。
本当にありがとう。」

私は「ありがとう」の言葉だけを兄の部屋に残しその場を去った。壁越しの隣にある兄の部屋から「ありがとう」と聞こえた気がした。


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