よのなかフォーラム
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タイトル 短編小説『吉兵衛』
投稿日: 2020/05/03(Sun) 15:40
投稿者USA

「棟梁、ちっと聞きたいですがね、ここのやすりの仕上がり、まだ甘いとは思いませんか」
「おい吉兵衛、なんだってそんな細けぇとこ気になるんでぇ。そんなもん柱と柱をくっつけちまえば見えねぇじゃねぇかよ」
「そうは言っても棟梁、気になっちまうもんは仕方ねぇ。もうちっと擦ってみますぜ」
この吉兵衛、江戸で評判のとある棟梁に弟子入りしてからというもの彼此20年いくらかの年月が経とうとしている。気づけばこの棟梁の組で一番の古株となっていた。
最古参となった理由は主だったものが二つ挙げられる。ひとつは棟梁の仕事が厳しく若いものがそれに付いていけないこと。そしてもうひとつは誰もがいつかは独立したいという願望があるもんだから、おおよそ10年くらいの修行を経て組から去っていくためである。

棟梁は口にこそ出さないが、吉兵衛の腕はすでに我がものを超えていた。今までのどんな弟子よりも筋が良い。しかしこの吉兵衛、欲という欲がないのかいつまでも組を離れようとしない。
「ところでよ、吉兵衛。おめえ、そろそろ自分の旗を立てたらどうなんだい」
「なんだって棟梁、そんなことを言うんですかい?」
「なんだっておめえ、もう若えもんは組を出てるじゃねぇか。お前さんもそうは思わないのかい?」
「出ていけと言われればあっしもそうしますがね。けど棟梁、あっしはね、棟梁と木についてあーでもねぇ、こーでもねぇなんて話してる時が一番楽しいんでさぁ。楽しくて仕方ねぇんです。うちにもね、倅がいるでやんしょ。その倅を見てるとねぇ、あっしと全く同じでやんすよ。倅はねぇ、畑で野菜を刈っては喜んで、そこでカエルを見つけては喜んで、とにかく何をしていても楽しそうなんですわ。あっしも木に向かって必死にやすりをかける度にねぇ、新しい発見があってそりゃいつも浮き浮きした心持ちでさぁ。まだまだあっしの腕は棟梁の足元にも及びません。これからもよろしく頼みますわ」
「吉兵衛、おめえさんには敵わなねぇや」

この吉兵衛、その腕と人柄を買われ、やがて江戸一番の棟梁になったとさ。


(著者あとがき)
森鴎外の「高瀬舟」などを読んでいると、そこには伝えたいメッセージがいろいろ含まれていてなんだか深いなぁと心から感激しました。彼に影響を受けて何かを描きたくなったのが本作です。


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