よのなかフォーラム
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タイトル Re: 在り方教育、人格教育に関して
投稿日: 2016/02/09(Tue) 07:11
投稿者カズ


> 藤原さんは本日のお話で情報処理力に加えて今の世の中は情報編集力が求められるとおっしゃておりましたが、人格教育(志を持つetc...)などの教育に関してはどのようにお考えでしょうか。
> (そもそも必要かどうか、どのようにすれば人格が磨かれるかなど。)

 はい、常に情報論から話しています。
 以下は、答えではなく、応えに過ぎません。私なりの納得解であり仮説であって、正解ではないし結論でもありませんから念のため。

 その前に質問です。
(1)松村さんにとって「人格」とは何を指すのでしょうか? 具体的に分解してみてください。
(2)その「人格」を磨く、大きくする、伸ばすということは、具体的にどのような行為によって達成されますか?
(3)それは、学校で可能なことですか? 学校の教員にはそれができるでしょうか?
(4)「人格」を磨いた結果は計測可能でしょうか? あるいは不可能ですか?
(5)もし計測不可能だとしたら、何をもって本人(もしくは保護者)は「人格が磨かれた」と納得するのでしょうか?
 ちょっと、考えてみてください。

 というのは人格の全体像は、第一に家庭で、第二に属するコミュニティで(地域社会や水泳教室や部活などを含む)、第三に学校の学習活動を通じて学ばれていると考えており、足りなければ、塾(進学塾、補習塾だけでなく、人格形成を目的とする塾を含む)の必要もあるでしょう。

 ただし、本気で学校でやるには、全寮制で教師がその家族とともに生活するボーディングスクールの形式を取らなければ無理だと思います。
 学校の授業ではせいぜい年間1000時間、部活でもそれくらいでしょう。家族から影響を受ける全時間にはかないませんから。

 人格とは何のことを指すのでしょうか?・・・の答えは実に多様ではないかと思います。
 私は小中学校から高校までは、その中核、もしくは基盤に「学力」が位置付けられなければ嘘だろうと考えます。でないと、夢やビジョン、志や情熱があっても、それを達成する技術が伴わないことになってしまうからです。

 技術を伴わない夢は、幻想に過ぎない。

 また、本来、「夢やビジョン、志や情熱」は本人がどのような物事とどの時期に遭遇するかという「体験」による刺激で育まれるものと考えており、その一つの体験の型として、圧倒的にカリスマ性のあるモデルやメンターとの遭遇があるように思います。

> 背景を共有致しますと、現状の日本の教育を見ていると教育基本法第一条で「教育は人格の完成を目的とする」とありますが先生とのお話や自身の教育を振り返った時にあまり重要視されていないように見られており、私自身、吉田松蔭さんが行ったような人間教育を今後行っていきたいと考えております。

 例えば、20代の若手がどんどん増えている現在の教育現場で、知育、徳育、体育のうちの「徳育」はどれほど可能でしょうか?

 吉田松陰はよく例に出されますが、あの時代の日本、その国際的な状況や危機感(いや、危機感ではなく、実際「黒船が来ちゃって脅された」危機)、国内の体制(徳川の末期で体制が制度疲労でもうもたない)、コミュニティ(藩の教育熱心)の中から生まれてきたものですよね。
 今の時代に同じ危機感は共有できないでしょう。

 であれば、何を共有して「立つか」?

 あくまで例えばの話ですが、私は、自分の子を(白血病の病苦を克服し教壇に立ってるとか、親が破産して困窮の子供時代を過ごしたが立志して社会起業した後に教壇に立っているとか、若い時に世界中を10年間放浪して飢餓に苦しむ世界中の子を少しでも救ってきたとか、そうした経験を経ずに)ただ人格形成を謳う塾頭に預けようとは思いません。

 その代わり、石巻の雄勝町でやっているMORIUMIUSに留学させたり、花まる学習会のサマーキャンプに預けたりした方が、志や夢の「肥やし」になりそうな気がするからです。


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